4/28(土)全国ロードショーの映画『バベル-BABEL-』の試写会に行ってきました。
アカデミー賞をはじめ様々な映画祭で賞賛を浴び話題となっていた映画だけに、すごく期待をして見に行きました。
しかし見終わっての感想は「何が伝えたたかったのか?よくわからない」でした。。。自分にはわからないだけで、きっとわかる人はわかるだろうし、良いという人も沢山いると思います。他に見た人の感想を聞きたいと思います。
そもそも『バベル』とは?Wikipediaから引用させていただきました↓。
聖書におけるバベルの塔
バベルの塔の記事は『旧約聖書』の『創世記』11章にあらわれる。位置的にはノアの物語のあとでアブラハムの物語の前に置かれている。そこで語られるのは以下のような物語である。
もともと人々は同じ1つの言葉を話していた。シンアルの野に集まった人々は、れんがとアスファルトを用いて天まで届く塔をつくってシェム(ヘブライ語、慣習で名と訳されている)を高くあげ、全地のおもてに散るのを免れようと考えた(偽典の『ヨベル書』によれば神はノアの息子たちに世界の各地を与え、そこに住むよう命じていた)。神はこの塔を見て、言葉が同じことが原因であると考え、人々に違う言葉を話させるようにした。このため、彼らは混乱し、世界各地へ散っていった(『創世記』の記述には「塔が崩された」などとはまったく書かれていないことに注意)。『創世記』の著者はバベルの塔の名前を、「混乱」を意味するバラルと関係付けて話を締めくくっている。
原初史といわれ、史実とは考えられないアブラハム以前の創世記の物語の中で、バベルの塔の物語は世界にさまざまな言語が存在する理由を説明するための物語であると考えられている。と、同時に人々が「石のかわりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを」用いたという記述から、古代における技術革新について触れながらも、人間の技術の限界について語る意味があると考えられる。
この映画も、ひとつの話がLosAngels・Mexico・モロッコ・日本と言葉の異なる各地でつながるという内容でした。
ただ、日本のシーンが本当に必要だったのだろうか?と思います。確かに”手話”という言語を入れることにより、バベルらしさも増すとは思いますが、使用されている映像にはあまり意味が無いような気がしてなりませんでした。まず描かれている背景が良くわかりませんでした。役所広司の存在も軽かったです。話題の菊池凛子の演技は確かにうまかったですが、内容が上品ではありませんでした(菊池さんのせいではないと思いますが。)。聾唖の少女としてもそうだけど、もともとのモロッコでの話からのつなげ方でも、もっと別の表現方法もあったのではないかと思います。申し訳ないけれど、これならむしろ日本のシーンは無い方が良かったのではないかと思います。。。


